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第二章 誰も知らない私2

Penulis: 相沢蒼依
last update Tanggal publikasi: 2026-08-14 11:55:01

 ホテルグランシアに着いたのは、それから三十分後のことだった。

 吹き抜けの豪奢なロビー、輝くシャンデリア、磨き抜かれた大理石の床。澪は自分の仕事帰りの服装が、この空間にそぐわないことを痛いほど感じながら、レストランへと足を進めた。

 窓際の席に、御子柴美佐子の姿があった。ブランド物のスーツを完璧に着こなし、背筋をぴんと伸ばして座っている。

 澪に気づくと、美佐子は腕時計に視線を落とした。

「遅かったわね」

「申し訳ありません……」

「座りなさい」

 メニューを開く間もなく、美佐子はテーブルの上に封筒を滑らせた。

「これを」

 澪は封筒を受け取り、中身を取り出した。

 ――離婚届。

 その文字を見た瞬間、息が止まった。

 美佐子は紅茶を優雅に一口飲み、静かに続けた。

「あなたは、もう智也には相応しくありません」

 澪は顔を上げた。

「……どういう意味でしょうか」

「言葉通りの意味です」

 美佐子は冷ややかに澪を見つめた。

「あなたはこの三年間、智也を縛り続けてきた。起業したばかりの息子を支えたという恩を盾に、離婚を引き延ばしているのでしょう?」

「私は、そんなつもりでは……」

「御子柴家の嫁としても、完全に失格です」

 美佐子の声には、一切の感情がこもっていなかった。

「子どもも作らない。家柄も釣り合わない。家事も仕事も中途半端。智也が情に流されて離婚を切り出せないだけです」

 澪は膝の上で拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込むが、痛みはほとんど感じない。

「結婚して三年です。もう十分でしょう?」

 美佐子は静かに、しかしはっきりと言い放った。

 その言葉が、澪の胸の奥に重く沈んだ。 

 智也が自分に差し出した”三年”という契約。美佐子が知る”三年”と、自分が知る”三年”は、決定的に違う。

 それでも澪は、何も言い返さなかった。ただ、離婚届を静かに見つめながら、義母の冷たい視線を受け止め続ける。

 美佐子に突きつけられた離婚届を見つめながら、澪の脳裏に、三年前の光景が鮮やかに蘇った。

 まだ会社を立ち上げたばかりの頃の、小さな事務所。

 夜遅く、誰もいなくなった部屋で、智也は初めて弱さを見せた。

「……もう、駄目かもしれない」

 自信家だった彼が、震える声でそう呟いた。

「澪を、こんな生活に巻き込んでしまった」

 その姿を見た瞬間、澪は迷わず通帳を取り出した。養父が残してくれた、大切なお金だった。

「智也さん。私にも背負わせて」

「駄目だ。そんなの受け取れない」

 智也は強く首を振った。

「俺は、澪のお金で成功した男になりたくない」

「私たち、夫婦でしょう?」

 澪は微笑んで通帳を差し出した。

「困った時に助け合うために、家族になったんじゃないの?」

 智也の目が揺れた。悔しさと申し訳なさで、唇を強く噛みしめていた。

 そして、数日後。智也は一枚の契約書を、震える手で差し出してきた。

「もし……三年後に会社が軌道に乗っていなかったら、俺たちは離婚しよう」 

 澪は息を呑んだ。

「どうしてそんなことを言うの?」

「君の人生を、俺の夢に巻き込みたくない」

 智也の声は掠れていた。

「失敗したら、君を自由にしてあげたい。……それが、俺にできるせめてもの覚悟だ」

 澪は何度も首を横に振った。

「そんな約束、いらない。私は智也と一緒にいたい」

 けれど智也は頑なだった。

「それでも、これは俺のけじめだ」

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